
東京栄和会
東京都江戸川区西葛西8-1-1
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森重睦雄さん(入居者)
新生なぎさ -引越し後の変化-
森重睦雄さん(4階・山茶花)
長年旧館で過ごしてこられた森重さんにユニットケアへの変化について、さまざまなお話を伺ってきました。
■ ユニットケアになって大きく変わったところはありますか?
「そうだね、やっぱり個室は快適だね。部屋が広くきれいになっただけでなく、昼も自分の部屋でくつろげるし、夜も静かに眠ることができる。これはとても嬉しいことです」
■ 「個室」で過ごすようになって生活は変わりましたか?
「もちろん。周りが騒がしいときは、自分でもイライラしてストレスが溜まっているのが分ったからね。今は静かな個室もあるし、リビングでも穏やかな時間を過ごしています。夜も誰にも邪魔されず、ぐっすり眠れるようになったので、体調的にも快適だしね(笑)」
■ ほかに大きく変わったところはありますか?
「お風呂も大きく変わったよね。体調や身体の機能にあったお風呂が選べるだけでなく、一人でゆったりと入るお風呂はある意味贅沢。しかし、今まで(旧館)は大勢で賑やかに入っていたから、寂しい気持ちもあるかな。たまには昔のように大勢で入ってみたい気もするなぁ(笑)」
■ 森重さん自身の中で、旧館との葛藤があるようですね?
「たしかに長年過ごしてきた旧館の生活には愛着があるからね。昔の生活のほうが賑やかで、快適だった部分もたくさんあった。しかし、ユニットの生活にも良いところはたくさんあるからね。わたしも徐々に慣れていかないとね(笑)」
■ 今回は貴重な感想、ありがとうございました。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いしますね」
鈴木康雄さん(ご家族)
~ 母の介護を通じて ~ (文集なぎさ 2004.1.25 40号より)
鈴木 康雄
母、鈴木幸江をなぎさ和楽苑に入苑させていただいて、早いもので8年になります。昭和63年に倒れて(左半身不随となってしまいました)から15年経ちますので、その半分以上ということになります。和楽苑にお世話になる前は千葉市郊外にある病院に通算して7年間おいていただきました。ただ、病院はいつまでも居られる場所ではなく、2、3年ほどした時、相談が持ちかけられました。選択肢は他の病院を紹介するから転院するか、あるいは自宅で半年程度面倒をみられれば、その後また元の病院へ戻れるようにするということでした。
妻、弟夫婦と相談した結果、私の所で同居しようということになりました。ところが、実際は想像以上に大変であることを思い知らされました。次から次へと用事を言いつけられたり、夜中に何度も起こされたりすると、こちらも段々イライラするようになりました。永い、永い7ヶ月間でした。若干ではありますが、このような体験を経ての和楽苑入苑ですから、新たな生活の様子を見たときには、職員の皆さんがどんな時でも笑顔で献身的にお世話していることに感心させられ、また感謝の念でいっぱいになりました。自分の親だけでも世話をするということは大変であるのに、多くの老人の世話を毎日の仕事にしていることについては本当に頭が下がる思いです。
よくある話だと思いますが、母も「将来は子供たちの世話にはなりたくない」と言っていましたが、私もそのようなことを言う歳になってきました。言葉で言うのは簡単ですが、子供でなければ和楽苑のような施設ということになるのでしょうか。しかし、その収容能力は増加する高齢者の数には到底追いつかないでしょう。そう思うと将来が心配になってきます。それも数さえ増えればよいというわけでなく、和楽苑のような水準の品質を落とさずに受け入れ体制が充実してほしいものです。
いずれにせよ施設だけでは収容し切れないですから、そうなると訪問しての介護や看護ということになりましょうが、このような事業を行っている会社の人から聞いたところでは、正に人の手による仕事であり、単に義務的に作業をするだけでなく、利用者とどのようにコミュニケーションをとったらよいか等々悩み、また職員を指導していかなければならないということでした。高齢者人口の増加という社会現象を考えると国等から何らかの援助をしてでも、この面も拡充していかないと介護が必要なのに受けられないであぶれてしまう人が出るようになってしまうのではないでしょうか。
巷では公的年金のこれからのあり方がよく話題に上がりますが、福祉についてももっと話題として登場してもらい、社会的な関心を高めてもらいたいものです。
秋山淳子さん(ご家族)
~ 母としあわせ ~ (文集なぎさ 2004.9.30 50号より)
秋山 淳子
長年暮らしていた、世田谷での父と母の穏やかな生活。その母の行動の変化に気付かされたのは、母と共に旅行してきた叔母(母の妹)の一言でした。彼女は義父母の介護を経験していました。私たちにも思い当たる事が多々あり、妹と母を連れて病院へ。初期であれば何とか少しでも食い止められるか・・・・・・と。
父の急死後、半年間弟との同居を経て江戸川区の私の家へ。「くつろぎ」でお世話になりながらでしたが、母自信の不安な心、止めどなく動き続ける母、入浴時の大騒動、夜間行動と二十四時間目の離せない日々でした。日々進行していく母を、ありのまま受け入れられるまでにはかなりの月日が必要でした。そんな時、親類の一人に「母の病は必ず進行する」とのことで特養への申し込みを勧められました。その時は半信半疑でしたが、現実に母の病は進行し、私自身体調を崩しかけた頃、なぎさ和楽苑へ入所させていただけることとなりました。
あれから五年、自分で意思表現できない母ですが、優しい職員さんたちにすべて手助けしていただき、今では元来のおっとりさを取り戻し、心穏やかな笑顔でいてくれます。一時は言葉を発することも忘れ、口だけパクパクさせておりましたが、最近は一日に何回か会話らしい言葉が聞かれることもあり、驚き喜んでおります。これも細やかなケアのおかげと感謝しています。週に何度か水辺の公園を散歩し、水や季節の花々を自分の手で触れ、確かめながら、私たちは幸せをかみしめています。
今年三月、旧館から新館への大掛かりな引越し、大勢の方々の協力のもと無事に終わり、皆様本当に御苦労様でした。慣れない建物での新しいユニットでの生活は予想以上に人手を要する仕事量であり、当所何と大変なことと思っておりましたが、若い職員さん方の熱意、エネルギーと対応能力は際限のないものかと感心しております。 建物や設備に左右されることなく、何十年も今まで生きていらした「その人らしさ」を何より大切に、きちんと一人一人に向き合った、あたたかな笑顔での職員さん方の対応、そして安心して過ごせる場所が確保されていることが、福祉(しあわせ)へと通じているのではないでしょうか。
なぎさ和楽苑のように、地域・ボランティア・家族、そして職員の方々と日々できるだけ多くの人たちに接することのできることが、人としての幸せな生活になくてはならぬことと思っております。
松田町子さん(ご家族)
~ 柔らかな笑顔を求めて ~ (文集なぎさ 2006.2.15 53号より)
松田 町子
少しの不安が、やがて大きな不安へと。平成12年に母は「まだら痴呆」という診断を受けました。何か私にできることは?と思い、母と2人で区のセンターへ、ダンスへ行ったりカラオケ教室へ行ったりと、他にも色々出掛けました。そんな時の母は、私と出掛けるということを、楽しんでいました。
私が小さい頃から平成11年まで、ずっと働き続けてきた母です。凛とした母です。そんな母が変わってきました。それは一緒に生活しないと分らないほどの、少しずつ。私の2人の娘たちの協力で何とか過ごしていました。毎日いつも怒っているようになり・・・そして、
①平成14年3月に骨折し入院、手術。3ヵ月ほど入院。
②退院し、2日後に再び入院(20日間入院)
③その後、江戸川区の老健へ。しかし徘徊の対応が難しいと言われ、1ヵ月後に
④別の老健へ(家から片道3時間かかる)ここは2ヵ月くらいで、
⑤妹の家に近い老健へ移動(家から片道2時間半かかる)。が、
⑥次の日に入院、手術。その後
⑦転院するが
⑧この病院では見切れないといわれ家に戻る(20日間近く)。その後
⑨老健へ。ここから少しの間は母の状態が落ち着いてくれ、3ヵ月入所して、2週間くらい家に帰るというペースで。(片道2時間半かけて、母と家族とで電車で移動)が、
⑩平成16年4月に再び入院、即緊急手術。危ない状態になりましたが、回復できました。また、移動してほしいと言われ、しかし、今までの老健は断られ、妹と2人で互いの近くを探してみましたが見つかりませんでした。
⑪高尾山近くの療養病院へ。しかし、母は部屋に入ると暗い顔になりました。「ここに居たくない」という反応をしたのです。認知症になってからの母は、心のままです。だからこそ『本当』を見抜くように思えます。この時だけは、母を置いて帰ることが私の心には重く、不安でいっぱいでした。この頃には、母本人も私たち家族も、心身ともに限界にきていました。
⑫その時、なぎさ和楽苑への入所が決まりました。その連絡の電話を聞いて心からホッとし、涙が出てきました。
平成16年8月に入所してから、母はみるみると元気に明るくなっていきました。私自身、体が弱く、仕事をしながら介護をしていくなかで、3回ほど倒れてしまいました。だからこそ今の『安心』がとてもよく分ります。今の母の穏やかな笑顔は、和楽苑の皆様、ボランティアの皆様、全ての方々の温かい笑顔のおかげです。母の柔らかな笑顔がいつまでも続くようにと祈るばかりです。